ぶら~りネット探訪

音楽、競馬、映画などについて非常にテキトーにダラダラと綴っていくブログでございますですよ。

三遊亭円丈の『ろんだいえん―21世紀落語論』

立川談志やその弟子の書いた本や堀井憲一郎の落語の本などを読んできましたが、三遊亭円丈の『ろんだいえん―21世紀落語論』という本にはかなり衝撃を受けました。 円丈さんのこの本によると、現在、寄席では古典落語がうけなくなっているそうで、新作落語の時代が来ているそうです。最近読んだばかりの堀井憲一郎の『落語論』にはそんなことは全く書かれていませんでした。7月に堀井憲一郎が『小島慶子☆キラキラ』に出演したときに独演会のチケットが取りにくい落語家をあげていましたが、新作落語を中心にしている落語家でチケットが取りにくいのは柳家喬太郎くらいでした。 図書館の落語のCDのコーナーや有楽町のビックカメラの落語のコーナーで円丈さんのCDを探してみましたが、残念ながら円丈さんのCDはありませんでした。ちなみに立川志の輔新作落語のDVDはありました。寄席でなければ分からない現象なのか?そういえば志の輔の『歓喜の歌』は映画になっていましたね。私は見ていませんが。 古典落語が衰退したのは古典落語が作られた江戸時代の情緒が現代は感じられなくなったことや、古典落語には「今」やリアリティが感じられなくないことが原因と円丈さんはおっしゃっています。私は古典落語に江戸情緒や「今」やリアリティといったものはそれほど必要だとは思っていません。「今」の笑いが見たければコントや漫才や見ればいいし、リアリティのある話なら映画やノンフィクションやドキュメンタリーを見ればいいんじゃないですか。 「今」ということにこだわっている円丈さんですが、正直なところ円丈さん自身の現代感覚にかなり疑問があります。グリコの「一粒300メートル」や「タンスにゴン」が最高のコピーと書いているのはそこで時代が止まっている感じがします。 円丈さんは300席を超える新作落語を作って演じているそうですが、円丈さんが作った新作は語り継がれているんでしょうか?語り継がれない新作は漫談や漫才とあまり変わらない気がします。「今」にこだわりすぎると噺としての普遍性もなくなりますよね。 昔の漫才やコントを今見ても面白く感じられないことって多いですよね。その時は時代にフィットしていたネタほど風化しやすいく、その時代を共有しているという感覚が必要になってきます。古典落語が今聞いても面白いのは何年も語り継がれている間に噺が洗練されていった結果なんだと思います。落語に限らず古典と言われる小説や映画は普遍的なテーマが底流にあって、それがある限りいくら時代がたっても人々の心に響くのだと思います。まだ古典とは言えないかも知れませんが、筒井康隆の『時をかける少女』が何度もリメイクされるのそういった理由があるからだと思います。 この本には円丈さんの作った新作落語のあらすじが紹介されていますが、正直あまり面白そうには思えません。円丈さんの『グリコ少年』をポッドキャストで聞いたことがあるのですが、この噺は地噺というか漫談みたいでした。強いて言えば川柳川柳の『ガーコン』みたいな感じの噺ですかね。そういえば円丈さんと川柳川柳は兄弟弟子でした。 新作落語について否定的なことを書いてきましたが、私は新作落語の全てを否定しているわけではありません。志の輔や談笑の新作は楽しんでいますよ。 落語界の世襲批判や春風亭小朝に対する反論などは単純に笑えました。新作落語がどうのうと言うよりも、『御乱心』みたいな暴露本にすればよかったのにと思います。 ろんだいえん―21世紀落語論
ろんだいえん―21世紀落語論