ぶら~りネット探訪

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広瀬和生の『落語評論はなぜ役に立たないのか』を読んだ

『×××はなぜ×××なのか』という新書のタイトルは数年前に流行りましたが、この新書は2011年の3月に出た新書です。

ほとんど予備知識がないままこの新書を手にとって、驚いたのが著者のプロフィール。広瀬和生という人はヘビメタの専門誌『BURRN!』の編集長で、この新書の他にも落語に関する本を出しているそうです。

私は落語に関する本を何冊か読んで、このブログのネタにしてきました。しかし、私は今まで落語評論家が書いて本は1冊も読んだことはありませんでした。私が読んできた落語の本のほとんどは落語家自身が書いた本で、それ以外は堀井憲一郎が書いた落語の本でした。

この新書を読んでいる途中で気がついたのですが、私は落語評論家というものを知りませんでした。1人も名前をあげることができません。堀井憲一郎につてはこの新書の冒頭で優れた落語評論の書き手ではあるが「客の立場の人」と書かれています。

第1章「落語とは何か」では落語の本質とホール落語の確立から、ちょっと前の落語ブームまで流れを分り易く解説しています。落語の本質についての解説は堀井憲一郎が書いていたものとかなり重なる部分があります。

ホール落語の確立から、90年代の沈滞期、そして2005年からの落語ブームについての解説は非常に興味深く感じました。ホール落語の確立は、新しい落語のスタイル生むが、弊害として「古典絶対主義」という価値観が生まれ、この価値観がその後の落語界全体を蝕み、停滞を招いたという著者の説が分かり易く展開されているところが歴史絵巻のような、昔、フジテレビの深夜にやっていた『カノッサの屈辱』を見ているような感じでした。

第2章「落語評論家とは何者か」では当然、現在の落語評論家について語っていますが、「古典絶対主義」と立川流の関係がメインで語られているとも読めます。

「古典絶対主義」を唱える人とは文楽圓生、小さん、志ん朝等の昭和の名人を絶対的な権威とし、教わった落語とにかくそのままやる落語家を賛美する人たちのことだそうだ。対して立川流の落語は「演者の自由な語り口」を基本とし、それぞれの落語家ごとの独自の解釈に演じるものだそうだ。

90年代以降、寄席の経験がない志の輔談春志らくといった立川流の落語家たちが活躍し始めても落語評論家は立川流については無いものとし、評論の対象にはしていないそうだ。また、新作落語を落語家についても同じような対応をしているそうだ。そのため落語評論家は今、本当に誰が人気があり、ウケているということは分からない、たがら落語評論家は役に立たないという結論になっています。

落語評論というものを読んだことがないので、よく分からないのですが、古典もやるけど新作もやる落語協会所属の柳家喬太郎みたいな落語家はどんな感じで論じられているのかちょっと興味があります。

基本的には落語評論家や評論家について語っていますが、エンターテイメントについての評論家や評論家の姿勢はどうあるべきかについても語っているようにも読めるようにも感じました。

ちなみに広瀬和生の考える現在の最高の落語評論家は立川談志だそうだ。『談志 最後の落語論』は私も以前読んだのですが、「いい芸とは江戸の風を感じられるもの」という部分が正直、私がバカなせいなのか抽象的でよく分かりません。バカな頭で必死に考えてみたら確かに落語から「江戸の風」を取ってしまうと、着物きた人が話す「面白い話」にしかならないような気がします。春風亭昇太の落語はまさにそんな感じですね。う~ん、難しい。

落語評論はなぜ役に立たないのか (光文社新書)
落語評論はなぜ役に立たないのか (光文社新書)