ぶら~りネット探訪

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立川志ら乃の『談志亡き後の真打ち』を読んだ

『談志亡き後の真打ち』というタイトルの本ですが、立川志ら乃は談志の弟子ではなく志らくの弟子で、談志の孫弟子になります。

志ら乃が落語、立川談志立川流の落語についてあーだ、こーだと苦悩し、師匠の志らくと対談したり、談笑と対談したりしている本です。春風亭小朝が『苦悩する落語』という本を書いていましたが、この本は『苦悩する落語家』といった感じです。志ら乃自身も書いていますが、真面目で硬い感じの人みたいですね。

前半は真打とは何か、真打トライアル(真打昇進試験のようなもの)について、細かく書かれています。志ら乃立川流で初めての孫弟子の真打だそうです。ここでは立川流の昇進がいかに厳しいかが書かれています。落語協会落語芸術協会の昇進がユルイとは書いていませんが、なんなくそんなニュアンスも感じ取れます。そう言えば、川柳川柳の弟子、川柳つくしも真打になるんですよね。でも立川流にもキウイという真打もいますからね。

志らくとの師弟対談は堅苦しい感じや、志ら乃が萎縮してしまっている感じが伝わってきて読んでいてあまり面白くありません。志らくは談志に同化し、自分こそが談志の正当な後継者だという自負があるのでしょうが、ちょっと空回りしている気がします。

談笑との対談はいい意味でユルい感じですが、志ら乃へのアドバイスは具体的で非常に分かりやすいですね。談志や志らくがこだわる「江戸の風」について、はっきりと「分からない」と言っているところも素敵です。『蔵前駕籠』で外せない「女郎買いの決死隊だね」というフレーズに対しても「決死隊」は死語とはっきりと言い切っています。この本の中では「こしらえる」という言葉も頻繁に出てきます。談志がよく使っていた言葉です。志らくもよく使っているのでその影響だと思います。「こしらえる」という言葉は他では『渡る世間は鬼ばかり』くらしでしか聞けませんね。『渡鬼』も終わってました。

私が好きな談笑、三遊亭白鳥柳家喬太郎といった落語家は「江戸の風」といった概念とは遠い所にいる落語家です。特に談笑や白鳥の落語には「江戸の風」はほとんど吹きません。でも、そこがい~んじゃないのかと思います。

私は志らくと談笑の落語会の前座で一度だけ志ら乃の落語を見たことがあります。正直、全く期待していなかったのですが、それなりに面白かった記憶があります。

表紙の志ら乃の写真はどうしても談春の『赤めだか』を思い出します。『赤めだか』と間違えて買ってもらうことを狙っているんでしょうか。以前、談笑はCDのジャケットをわざと談春のCDのジャケットに似せて作ったと言っていました。

談志亡き後の真打ち