ラッシャー木村さん亡くなる
サンスポによりますと、元プロレスラーで2003年からプロレスリング・ノアの終身名誉選手会長に就任していたラッシャー木村さん(68)が24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去したそうな。ノアの公式サイトが発表したそうな。2004年のビデオレターでの引退発表のときから体の具合は良くなさそうな感じでしたね。
ラッシャー木村さんは大相撲の宮城野部屋に入門、その後ブロレスに転向、日本プロレス→東京プロレス→国際プロレス→新日本プロレス→第一次UWF→全日本プロレス→プロレスリング・ノアと活躍していました。
国際プロレス時代はエースで「金網の鬼」と呼ばれていました。私が住んでいた地域では国際プレスのテレビ中継はやっていなかったので国際プロレス時代のラッシャー木村さんは見たことがありません。
1981年、国際プロレスが崩壊したため、ラッシャー木村さんはアニマル浜口、寺西勇とも新日本プロレスのリングに上がりました。「こんばんは、ラッシャー木村です」というマイクパフォーマンスはこの時ですね。アンドレ・ザ・ジャイアント対スタン・ハンセンが行われた田園コロシアムでのハプニングですね。この頃は私もテレビで見ていました。
アントニオ猪木のシングルの対戦相手としてはアンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどの外人に比べるとどうしても見劣りしてしまうためか、アニマル浜口、寺西勇を加えて3対1のハンディキャップ・マッチまで組まれたりしていました。子供の頃は単純に猪木を応援して見ていましたが、今になって考えると何とも言えない寂しさと言うか切なさがあります。いくらなんでも3対1で猪木が勝ってしまうのはリアリティーがないので猪木は勝っていませんでした。
その後、なぜか第一次UWFに参加していました。実際に数ヶ月しかUWFには在籍しなかったようです。UWFとラッシャー木村さんのスタイルは今考える全く共通点が見いだせません。とても不思議な組み合わせですね。最初の数ヶ月ならUWFのスタイルもそんなに固まっていなと思いますが。
全日本に移籍してからはマイクパフォーマンスを中心として、ジャイアント馬場との「義兄弟タッグ」で主に前座の試合で活躍したいました。なぜかイカ天に審査員として出演もしていたりしました。プロレスラーとしての晩年を馬場や悪役商会のメンバーなどと穏やかな感じで過ごせたのは幸せだったのではと思います。(その後、ノアの立ち上げにも参加していますが)
私がラッシャー木村さんの技で印象深いのはブルドッキング・ヘッドロックです。相手にヘッドロックをかけたままダッシュし、倒れこむという、動きはちょっと派手だけど、あんまり説得力のない技です。
ご冥福をお祈りします。