ぶら~りネット探訪

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『「週刊SPA!」黄金伝説 1988~1995 おたくの時代を作った男』を読んだ

「週刊SPA!」の3代目編集長だったツルシカズヒコの『「週刊SPA!」黄金伝説 1988~1995 おたくの時代を作った男』を読んでみました。 「週刊SPA!」は割と好きな雑誌です。週刊誌の中では「週刊文春」の次に好きですね。1988年に「週刊サンケイ」がリニューアルされ「週刊SPA!」となったことは私の頭の中にも微かに記憶があります。しかし、「週刊サンケイ」がどんな雑誌だったかという記憶は全くありません。 この本はツルシカズヒコが「月刊OUT」の編集部に入り、雑誌の編集のイロハを学び、扶桑社の「週刊サンケイ」~「週刊SPA!」での活躍を振り返る内容となっています。「週刊SPA!」の3代目編集長になるあたりがクライマックスで、小林よしのり宅八郎のトラブルを上手くおさめることができず編集長を辞めるところで終わりとなります。 「週刊SPA!」のピークの発行部数は33万部、年末年始の合併後は50万部、1号あたりの広告収入は5000万円、年間で20数億円だったそうだ。「週刊SPA!」のピークとバブル景気のころがほぼ重なること、上手くバブルに乗った雑誌とも言えます。この本のなかでは何度もバブリーな扶桑社や「SPA!」の編集部、読書も招待したパーティや広告クライアントとのゴルフコンペの話ができます。 「SPA!」黄金時代の大きな功績としては、宅八郎中尊寺ゆつこを発掘し、育てたことと小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』の連載を始めた事、そしてこの本のタイトルにもある様におたく的なものを一般的に広めたことだそうです。 宮崎勤の事件をきっかけに「おたく」という言葉とそのネガティブなイメージを「SPA!」や宅八郎は変えたとは思いますが、その後に登場した岡田斗司夫に比べると宅八郎一発屋的な感じやイロモノ的な感じがします。岡田斗司夫はいつのまにか「おたく」を「オタク」と表記するように変えてしまいました。ツルシカズヒコと宅八郎は「おたく時代」で、岡田斗司夫唐沢俊一は「オタク時代」ということでしょうか。 ツルシカズヒコも岡田斗司夫唐沢俊一と同じく1950年代の後半の生まれでほぼオタク第一世代にあたるのですが、ツルシカズヒコ自身は「月刊OUT」の編集にも関わっていたのにオタク的な面はほとんどありません。ちなみに宅八郎岡田斗司夫唐沢俊一よりも若く、1962年の生まれ。この本には「宅八郎」というペンネームが生まれるエピソードも書かれています。「宅八郎」以外の候補は「宅田宅郎」、「宅倉健」だったそうです。 中盤以降は田中康夫小林よしのり宅八郎などの連載に関するトラブルとその対応に関するエビソードが中心になり、ツルシカズヒコはトラブルの流れの中で溺れ、編集長を辞めた感じです。小林よしのりの「カバ焼きの日」が扶桑社の上層部の判断で自主規制になったエピソードが懐かしいてですね。小林よしのりはまた「カバ焼きの日」みたいな漫画を描いて欲しいですね。無理だと思いますが。 中森明夫の「中森文化新聞」についてはあまり詳しくふれていないのが少し残念でした。漫画家でコラムニストのしまおまほは「女子高生ゴリコ」が「中森文化新聞」で取り上げられてデビューとなったと記憶しています。 「週刊SPA!」黄金伝説 1988~1995 おたくの時代を作った男
「週刊SPA!」黄金伝説 1988~1995 おたくの時代を作った男